「それ」は歳をとらなかった。九条の家に生まれた者が性的に未分化なまま長い時を生きることは昔から知られてはいたが、それもやがて緩やかに普通の人間へと変化を遂げていくはずであった。なのにその者に限っては、いつまで経ってもその変化が訪れる兆しがなかった。

 何故そうなったのか、原因は分からない。一族の中でも類を見ない強大な霊力が肉体に影響を及ぼしたのか、或いは血の濃さ故に代々受け継がれてきた特徴が殊に色濃く現れたせいなのか、いずれにせよ。

 あらゆる分野における天性の才能を持つ一方で、幼い姿のまま自らの時を止めたその存在を、周囲のある者は畏怖、またある者は揶揄をその言の葉に込めて、いつしかこう呼ぶようになった。

 「京洛の蛹」と。


  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆




「それじゃ昴さんは、九条家の継承権を持っていないんですか?」

 細く曲がりくねった山道をどれだけ歩いてきただろうか。先程から更に傾斜のきつくなってきた道を、軽く息を弾ませ足を踏みしめながら、大河は軽やかな足取りで前方を行く昴の背中に問いかけた。

「随分昔の話だ。自分には必要ないと判断したから放棄した。その結果今まで世界中を飛び回り、行動を制限されずにやってこられたのだから、いい判断だったと思っている」

「そうか。ボクは大河家の長男だから将来的には家長を継ぐことになるけど、結局それって名前だけなんですよね。昴さんの所みたいに大きな家だと、家を継ぐに当たっては、色々と考えなきゃならない、ことがあって、親族会議、なんかも…」

 喋る大河の息がみるみる上がってくるのに気付き、昴は歩調を緩めて振り返った。

「昴は思った。慣れない人間がこれほどの急勾配を重い荷物を抱えて喋りながら登るのは至難の業であろう、と」

「い、いえ…」

「意地を張るな。無理をして僕の荷物まで持ったりするからだ。ほら、返して」

「だ、大丈夫です。少し、休めば…」

 流石に耐えきれなくなったのだろう。大河は二つのトランクを地面に置き、膝に両手をついて呼吸を整えた。

「…それもいいな。あの樹の下で少し休憩しよう」

 昴は道から少し離れた一本の木陰を指し示した。

  

「すまなかった。つい昔からの癖で、いつものペースで歩いてしまった。君がずっと平気な顔でついてくるものだから気付かなかった」 

 木陰に置いたトランクに腰を下ろし、昴から手渡された水筒のお茶を飲み干して、大河は満足そうに息をついた。

「いいんです。もう全然平気だし。それに、何だか嬉しくて」

「嬉しい?君が?何故」

「何となく。昴さんが急いで歩いて行くのを見ていたら、余程家に帰るのを楽しみにしていたんだな…って、そう思うと何だかボクまで嬉しくなってきて」

 昴は驚いたように目を瞬き、薄く苦笑いを浮かべた。

「そうか…そんな風に見えていたんだな」
 
「え?違うんですか?」

「いや、別に…」

 昴は大河から視線を逸らして辺りを見回した。早春の京都の山は雪解けもすっかり終わり、耳を澄ませば鳥の声に紛れて小川のせせらぎも聞こえてくる。

「それにしても、まさか昴さんの実家がこんな…」

「こんな山奥にひっそりと建っているとは思わなかった?」

「どんな御家なのかは色々想像してましたが、こんな場所にあるとは確かに予想外でした。でも流石というか、いい所ですよね。山全体の空気が澄んでいて、霊気がただよう感じがします」


 ここが昴の故郷。どんな所だろうか、一度見てみたいと、以前より密かな願いを抱いてはいたものの、それがこんなに早く実現するとは思わなかった。  

(しかしこれって、僥倖と言うよりは…うーん)

 それは明らかにとある人物の気まぐれによるものであった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「バカンス…ですか?この時期に?」

「そう。信長の脅威は去り都市防衛に於ける当面の危機は回避された、ということで、君達に長期休暇をプレゼントしようかと思ってね。紐育を離れてしばらく羽を休めるのもいいだろう?」

 いつもの昼下がりのリトルリップ・シアター。いつもの唐突な支配人室への呼び出し。てっきり彼のいつもの気まぐれで、何やら新しい仕事を押しつけられるものと予想していた大河は、正直面食らった。

「実はね、昴が実家へ里帰りすることになって、急遽日本行きの船を手配する必要ができたんだ。そこでボクは考えた。星組の隊員にもう一人日本出身がいるじゃないか、切符の手配にかける手間は一人も二人も同じ、ならばこの際一緒に行かせてしまえばいいじゃないか、と」

 実はもう準備が出来ているんだ、とサニーサイドは自慢気に横浜までの往復乗船券をひらひらと振って見せた。

「で、あの…しばらくって、どのくらいの期間になるんです?」

「渡航にかける期間も合わせて、概ね2ヶ月ってところか」

「ボクはともかく、昴さんがそんな長期間シアターを離れるのって、問題がありませんか?」

「ん〜、それも考えたんだけどね、今のところ魔物も出ないし街の復興も順調だし。華撃団の出撃に限って言えば君等が1、2ヶ月くらい留守してても何とかなるだろう。シアターの仕事はそれに比べるとやや問題がありそうだが、その期間のフォローも不可能じゃない。そう結論付けた」

「そうですか…」

「あれ?大河君嬉しくないの?久しぶりの帰省だよ。それも昴と一緒の旅行。ボクにしては粋な計らいだと思っていたんだけど」

「いえ、お気持ちは本当に有難いんです。ただ、自分はまだまだ未熟だから、この紐育でこれからも経験を積んで、成長出来たと思えるまでは日本に戻らないって、…実はこの前、実家への手紙にそう書いちゃったんですよね」

 えへへ、と照れ笑いを浮かべる大河につられて、サニーサイドもにっこりと笑って言った。

「じゃあ戻らなきゃいいじゃない」

「いきなりさっきと正反対なこと言うんですね」

「話は最後まで聞きなさい。日本には行くけど、実家には帰らないのさ」

「?…じゃあボクはどこに行くんです」

「決まってるだろ。昴の実家に同行するんだよ。向こうは別に構わないと言ってたからね」

 更に予想もしなかった相手の提案に大河は慌てた。

「そ、そんないきなり…あまりにも失礼じゃないですか」

「おや、君は行きたくないの?昴の故郷」

「それは…興味はありますし、いつかは行ってみたいと思っていましたけど」

「いいじゃない、それが今でも。せっかくの機会なんだしさ」

「日本人は奥ゆかしいんです。それに昴さんの家ってすごい名家って言うじゃないですか」

「まあ、歴史上有名な同名の家柄と繋がってはいると聞くね」

「そんな立派な家に、正式に招待されたわけでもないのに押しかけるなんて、何だか気後れするというか…」

 戸惑う大河を見てサニーサイドは口元に悪戯っぽい笑みを浮かべ、ふとあさっての方を向き独り言のように喋りだした。 

「そうかぁ。昴を一人で行かせちゃうのかぁ。…あれ程の旧家なら、親同士が決めた婚約者が昴を待っていてもおかしくはないなぁ」

「え?」

「そうでなくても、久しぶりに懐かしい家に戻って、昔別れた幼馴染なんかに再会して、何もかもが懐かしくて居心地が良くて、…家っていいよねえ。あんまり居心地いいと、もう離れたくないって思っちゃうかもしれないねぇ。いつまで待ってても、こっちには帰ってこなくなったりして…」

「行きます!」

「そう来なくちゃ」

◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「…何だか上手く乗せられたような気がする」

「気がするじゃなくて事実だろう。後悔しているのか?」

「いえ、そういうことでは」

 妙な誤解をされてはたまらない。大河は慌てて立ち上がり椅子代わりのトランクに手をかけた。

「そろそろ行きましょうか。もうじゅうぶん休んだし、到着が遅れるのも何ですから」

「安心しろ。もう目の前に来ている」

「え?」

 昴に言われて木陰の向こうを覗くと、途端に景色が開けた。二人の座っていた樹のある場所は低い土手になっていて、そこから目指していた九条家の全容を見下ろすことが出来た。

 大河は思わず感嘆の声を上げた。それは山奥にひっそりと建つ、というにはあまりにも大きな、立派過ぎる屋敷だった。

「何だ…。ボク達とっくにお屋敷の邸内に入り込んでいたんですか?」

「そうとも言う」

「だったら何もこんな場所で、いつまでも休んでいなくたって…」

 そこで大河はふと言葉を切った。そう、少々不自然だ。どうして家からこんなに近い所をわざわざ休憩場所に選んだのか…。

 昴は無言で両手の中の空になったコップをぼんやりと見つめている。その横顔が、心なしかいつもより白い。

「昴さん?」

「…」

「ひょっとして、あまり帰りたくなかったんじゃ…」

「…仕方ないだろう。僕を家へ戻すようにと、九条の家が日本政府を通じて紐育華撃団に直接圧力をかけてきたんだ。このまま応じずにいたら、次はどんな手段に出るか分からない」

 大河はぎょっとして聞き返した。

「そ、そんな話があったんですか?サニーサイドさんはそんなこと一言も…」

「確かに何も言わなかった。だが何らかの力が働いたことは間違い無い。でなければ、あのサニーサイドが僕に帰省を促す筈がないんだ」

「?」

「こっちの話だ。…それより大河、出発前に彼から何か受け取っていなかったか?」

「ああ、これのことですか」

 大河はポケットから小さな巾着袋を取り出した。彼の叔父が以前渡してくれたものとよく似た袋だったが、浮世絵の美人画があしらわれた柄が、渡した本人の趣味を如実に物語っている。

「サニーさんから、困った時にはこれを開けって言われたんです。何でも、ボクが紐育へ渡る時に一郎叔父がくれた手鏡の話に大変感動したそうで、自分も同じことをやってみたくなったんですって」

 まさかこれを渡すためだけにボクを日本に行かせたんじゃないでしょうね…と、大河は受け取った袋を矯めつ眇めつ呟いた。

「何が入っているんだろう…手鏡とかじゃなさそうですね。薄いし軽いし、何かの紙包みたいにも思えるけど」

「昴は思う。サニーサイドの悪趣味は有名な話だ、と。中身はせいぜい下らないアメリカンジョークのメモといったところだろう」

「まあ、ボクもそうだと思いますが、先に開けてしまうのも失礼だし、後悔するのもなんですから…機会が来るまでお守りとして大事にしておきます」

「律儀なことだ。最後までそれを開く機会が来ないことを祈るよ」

 昴は小さく息を吐くと立ち上がり、服についた泥をはたいた。

「さて…そろそろ行くか」

「あ、荷物持ちますよ」
 
 もう大丈夫ですから、と微笑みかけると、硬い表情でじっとこちらを見詰めてくる昴とまともに視線がぶつかった。物言いたげな真剣な眼差しの中にある微かな揺らぎを、大河は見逃さなかった。 

「昴…さん?」

「何でもない。…行こう、大河」

 凪いだ心の湖面に見え隠れする不安と緊張、そして高揚…大河にも馴染みがある。それは敵地に乗り込む時の覚悟にどこか似ていた。


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