冷たく澄んだ空気を震わせて、鹿威しの音がやけにうるさく響く。背中をどやしつけられているようで、大河は獣じゃなくても逃げ出したい気分になった。ただでさえ二畳余りの狭い茶室の中、初対面の相手と二人きりという状況である。ましてや対峙する相手が相手だった。

(これが、昴さんの母親…)

 大輪の白菊、最初にそんな言葉が浮かんだ。しなやかな指が見事な手捌きで白釉の器に茶を点ててゆく。その透けるような白い肌にはシミ一つ見られず、しかし美しく結い上げられた髪は、混じり気の無い白髪だった。一見老婆のようにも、ふとした仕種が少女のようにも見え、とらえどころのない雰囲気をかもし出す。
 
「頂戴いたします…」

 受け取った茶は色からして相当上質のものと見受けられたが、今の大河にはその味を楽しむ余裕も無く、ただ苦味だけが舌を焼いた。

 大河から茶碗を返されると、女性は初めて口を開いた。

「狭霧から聞きました。昴の、婚約者だと仰ったとか」

「あ…すみません。実はそれ、嘘なんです。あの時はどう自己紹介していいのか分からなくて…。ただの知り合いなんて言ったりしたら、その場で追い出されてしまいそうだったので、それでつい」

「実際に婚姻の約束をしたかどうかを問うているのではありません。あなたが本気で昴との婚姻を考えているのかどうかを聞いているのです」

 答えを促す沈黙に、大河は小さく頷いた。昴の母は僅かに目を細めただけで、その顔からは好悪いずれの感情も読み取れない。大河は決まり悪げに居住まいを正した。

「居づらいでしょう?」

「えっ…?」

「貴方が昴と結婚するということは、この家に入り九条家を継ぐということ。しかし私の見る限り、貴方はこの家に納まる器ではない」

 咄嗟に言葉が出なかった。段取りをすっ飛ばしていきなり結論を突きつけられたようなものだ。

「昴と共にこの家の将来を担うには貴方の器量は小さすぎ、貴方の未来に広がる可能性は、この家に収まるには大きすぎる」

「で…でも、あの、昴さんは九条家の継承権を放棄したって確か…」

「蛹のままならば、という条件付きです」

「蛹?」

「そう。男にも、女にもなりきれず、時を止めてしまった。今のあの子はいわば蛹のようなもの…」

 昴の母は、庭の方へと視線を向け話し始めた。 

「九条の血を引く者の中に稀に見られる特徴です。あの子は一族の中でも特にそれが顕著でした。どれほど優秀な者であろうと、子を成す事が出来なければ家を継ぐのは不可能。だからこそ私は、九条家の継承を拒んだ昴の意志を認め、あの子を外の世界へ寄越したのです。広い世界で経験を積むことでやがてその身に“変化”が訪れる…その可能性に賭けました。そうなればこの家に戻り九条家に相応しい婿を迎えると。そういう約束でした」

「ですが昴さんの…昴さん自身の気持ちはどうなります?蛹から羽化した者は、その羽で望む場所へ自由に飛び立つことが出来るのではありませんか?」

「面白い例えをなさいますね。詭弁とも取れますが」

 昴の母は口元に笑みを浮かべて大河の方へ向き直った。

「昴の変化は、貴方が考えているよりもずっと深刻な問題なのです。蛹の時期が長かっただけに、どんな形で変貌が訪れるのか全く予測がつかない。それはとても危険なこと。この家にいてこそ、どのような事態が訪れても対処することが出来るのです。だから一度あの子をここへ呼び戻す必要があった」

「ですが、昴さんは…」

 言いかけて大河は押し黙った。余計なことは喋るなという昴の忠告が、俄かに現実味を帯びて蘇ったからだ。

「先ほどあの子は私にこう言いました。『自分の身にはまだ何ら変化は無いのだから、家に帰る理由は無い。このまま紐育へ戻る』と」

 それはそうだろう。今の昴がみすみす、変わり始めた自分をこの母親に告げるとは思えない。そう言ってしまったが最後、昴は二度とこの家から出してはもらえなくなるのだから。

 なのに母はその時、大河の目の前でさも得心がいった風に頷いたのだ。 

「驚きました。あの昴が、何かに対しこれほど強い執着を見せたのは初めてです。内面の変化は肉体に影響を及ぼす。恐らくその変化も既に始まっているのでしょう。…貴方が話して下さった通り」

「ボク、が?…一体何を」

「貴方はさっき、自分のことを昴の婚約者であると仰った。そして今、昴に変化が訪れていることをほのめかす例えをなされた。そういう言葉が出るのは、それなりの根拠があってのこと。違いますか?」

 無言で固まる大河をまるで哀れむような目で見遣り、昴の母親は言葉を続けた。

「昴は変わった…今貴方と話してみて、はっきりしました。あの子はまだ否定していますが、それは昴自身に訊けばすぐに判ることです」

 その言葉の意味を理解した時、大河は頭から冷水を浴びせられた思いがした。何故自分だけがこの茶室に呼ばれたのかと、ずっと疑問に思っていたが、これがその答えなのだ。

 昴の母は優雅な手つきで柄杓の水を茶釜に注ぎ込んだ。

「貴方が昴と犯したであろう間違いについては不問と致します。いえ、むしろこれは感謝すべきことなのかもしれませんね…お茶をもう一服いかが?」

「結構です!」

 答えるより先に大河は立ち上がっていた。

 

◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「昴さん!どこです、昴さん!」

 母屋の長い廊下を、その名を呼びながら大河は必死で昴の姿を探した。なぜもっと早く気付かなかったのだろう。言われるままに昴を一人にするという愚を犯してしまったことを死ぬほど後悔した。

「大声を上げて人の屋敷を走り回るのは、お前の家の流儀か」

 声に怒気を閃かせて、現れた狭霧が大河の前に立ちはだかった。   
 
「昴さんは、どこに行ったんですか」

 その問いに答えるように狭霧の背後の障子が音も無く開き、水を湛えた水盤を持った侍女が部屋から出て行った。

「!…昴さん!」

 開いた障子の陰からその姿が見えた。白い寝間着姿で布団に横たわっていた。部屋に入ろうとするのを狭霧に引き戻され、障子が中の方から冷たく閉ざされた。

「取り込み中だ。もうしばらく待て」

 さっきまで普通に喋っていたはずの昴が何故…嫌な予感で思考が混乱する。問い質そうとする大河の視線を受け、狭霧は答えた。

「調べただけだ。どこも傷つけたりはしていない」

「し…調べた、って、何を…」

 大河の中で何かが切れた。次の瞬間大河は男に掴みかかり叫んでいた。

「昴に何をした!」

 しかしその叫びは男の平手によって報われた。

「もっと前に言うつもりだったが…下賤の者が軽々しく昴様の名前を口にするな」

 言い返そうとして大河は男を睨みつけ、その顔に真新しい傷が刻まれているのに気付いてはっとした。かすり傷程度の浅いものだが、左の頬から顎にかけて真一文字に皮膚が裂かれ血がにじんでいる。
 
「その、傷…」

 大河には見覚えがあった。自分も以前同じ傷を負ったことがある…記憶に間違いがなければあれは、鉄扇でつけられた傷だ。

 狭霧は憮然とした表情で、乾きかけた頬の血を拭った。

「私のことも殺しかねない勢いだった。大人しくさせるには薬を使う以外なかった」

「…そんなに嫌がっている昴さんを…あなた方は一体何の権利があって!」

「お静かに」

 す、と背後の障子が開き、中から医者らしき老人が姿を現した。 

「狭霧殿、検分は終わりました。お目覚めは夜半になると思われます。詳しくはこれより御当主の許でお話を…」

 医者は報告しながら大河に一瞥を投げかけ、頭から足元まで素早く視線を走らせた。

「それと、内診した限りでは懐妊の兆候は見受けられませんが、…時期というものもございます。この先何か変化がございましたら、またすぐにお呼び立て下さい」

 自分に向けられた医師の目からは明らかに侮蔑の色が読み取れた。大河は怒りのあまり眩暈を覚えた。

(なんなんだ…何なんだよこの家は!)

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