障子越しに差し込む光が、気付けば赤い夕闇から藍色の闇へと変わっていた。運ばれた豪華な夕餉に手をつけることもせず、大河はじっと座り込んだままやり場の無い怒りと後悔に包まれていた。

 まだ思考が昼間の混乱から抜けきれていない。今回の渡航は単なる一時の里帰りではなかった。最初から彼らは昴をこの家に引き戻すつもりだったのだ。何も知らない大河が些細な理由で怒ったり落ち込んだりしている間、昴はたった一人で彼らと戦っていた…。

 それに気が付いた時には、もう全てが終わっていた。抵抗する間もあらばこそ。昴は体中を調べられ、大河は昴と引き離され、明日の朝には一人紐育へと帰される。

 全ては自分の不用意な発言のせいで。

(ボクは、馬鹿だ。せめて最初から昴さんを一人で行かせていれば…ボクが一緒に来たばかりに…)


 不意に何かを思い出し、ぎくりと身を強張らせる。そう。最初から昴は一人で家に行く筈だったのだ。本来部外者である自分が何故ここに来たのか、何故ここに居るのか。誰の意図によって…。

 屋敷に着く前に昴が漏らしていたいくつかの言葉が、朧気ながら一つの形を成してゆく。

「サニーサイドさん…」

 こうなることを彼は最初から知っていた?知っていて大河を焚き付け昴の実家に同行させた…。

 だとしたら。

「ボクは…」 

 考えろ。

 今は自分を責めたり、理不尽な仕打ちに腹を立てたり、そんな悠長なことをしている場合ではない。残された時間で何をすべきかを考えるんだ。




「大河新次郎殿」

 襖の向こうから声がした。戸が静かに開き狭霧が姿を見せた。

「昴様がお呼びだ。最後の別れをしたいとの仰せだ」

 大河は目を伏せ、のろのろと立ち上がった。 

「昴様は人払いを命じてある。くれぐれも、おかしな真似はするなよ」

「ボク達が何をしようとあなたには関係ありません。そのための人払いでしょう?」

 大河の言葉に狭霧は嫌悪の表情をあらわにした。

「言っておくが、昴様が例えお前の子を身籠っても、その子は九条家の跡継ぎには決してなれない」

「生々しいこと言わないで下さい。別れを惜しむ気持ちに水を差されたくないですから」

 ほう?と狭霧は軽く目を細めた。

「少しは頭が冷えたか」

「…家を継ぐことを、昴さんは承諾されたんですね」

「承諾するも何も。あの方の生きる場所はこの家以外には無い。それは昴様ご自身が一番よく御分かりのはず」

「そうですか…」

「不本意だろうな。だが仕方の無いことだ。昴様はお前を相当信頼しておられるようだから、九条家として今後も其方の団体に対する協力援助は惜しまないと、御当主は申されている」

「では、別れてしまっても手紙を届けてもらうくらいのことは出来るんですね?」

「昴様がそうお望みなら」

「ありがとうございます…」

 そう言って殊勝にも頭を下げる大河を、狭霧は少しばかり拍子抜けした顔で見つめた。 




「大河殿をお連れ致しました」

 昴の部屋の前まで来ると狭霧は中に向かって呼びかけた。応えは、無い。狭霧は静かに障子を開け大河を中へと促し退出した。 

「昴さん…」

 昴は布団の上に身を起こし、窓から差し込む月の光を受けじっとこちらを見つめていた。冷静に話をするつもりだったのに、その姿が何だかひどく小さく見えて、大河はたまらず昴に駆け寄りその身体を掻き抱いた。

「すみません、昴さん、許して下さい。ボクが余計なことを言ったばかりに…」

 昴は大河の腕の中で小さく首を振った。

「大河に咎は無い。この事態は最初から予測がついていた。当主の…母の目を誤魔化すなど、最初から無理な相談だったんだ」

「昴さん?」

「それだけじゃ、ない。何も出来なかった。何も…。こんなに、こんなに自分が弱くなっていたなんて…!」

 悔しさに全身を震わせ、昴は大河の腕に縋りつく。抱きしめた細い身体から、言葉で言い表せない絶望が大河へと流れ込んでくる。

「昴さん、よく聞いて下さい。変わるということは、過去の自分を全て失うことではないでしょう?昴さんは久しぶりに懐かしい我が家へ戻って、それが見えなくなってしまっているんです」

 昴の肩を掴み、瞳を覗き込んで大河は告げた。

「紐育へ戻りましょう。昴さんが昴さんでいられる場所へ」

 見つめ返す瞳が戸惑いに揺らぎ、やがて昴は力なく首を振った。 

「大河は一人で戻れ。僕が紐育に戻っても、この先どんな迷惑をかけるか分からない。そうなる前に僕は身を引く。これからはこの九条家から、紐育の皆のことを見守っていきたい。だから、どうか、元気で。皆によろしくと伝えてくれ…」

 口ではそう言いながらも、昴は大河の腕を掴んだまま離そうとはしない。

「では言い方を変えます。逃げましょう」

「大河…?」

「さっき昴さんが言ったことは、そうするより他無くなった時にゆっくり考えればいい。今はまだその時ではないと思うんです。家の人が九条家を離れることを許さないのなら、逃げ出す以外に方法はありませんよね。一緒に逃げましょう。ボクは多分、その為にこの家に来たんですよ」

 信じられないというように、昴は目を瞬いた。 

「勿論ボク一人の力じゃ、昴さんを攫って逃げるなんてとても無理です。もしも昴さんが、本気でこの家に残りたいと願っているのなら、ボクは諦めて一人で紐育へ戻るしかないです」

 笑みすら浮かべて、さらりと恐ろしいことを口にする…そう感じた時、昴は自分にかかる九条家の呪縛がいかに強いものであるかを思い知った。

「それとも本当に紐育へは帰りたくない?…今夜で、最後なんですか?」

 昴は悲鳴に似た音を立てて鋭く息を飲み、大河の両腕を強く握り締め否定の意を伝えた。

「そうこなくちゃ」

 笑顔で頷く大河の声を懐かしさと共に昴は聴いた。大河は変わらない。どこまでも彼についていく事を誓ったあの頃から、ずっと…。



「勇気を…」

 昴は目を閉じ、誘うように薄く唇を開いた。

 触れては離れる口付けを幾度か繰り返した後、昴の乾いた唇を軽く舌で湿し、その内側へと差し入れる。舌先が昴のそれに触れると、目覚めたように蠢き大河の舌を逆に絡め取った。

「え、ちょっ…」

 大河の首筋に細い腕を回し、予想以上の激しさで貪るように深く口付けてくる。戸惑いながらも何とか必死で応えようとすると、昴が喉を鳴らして笑ったのが分かった。

「…続きは、帰ってから」

 唇を離し、囁いて嫣然と笑む姿は、今まで見たことも無いほど蠱惑的で、しかしこれほど頼もしく見えたことも無かった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆




 暗い廊下の片隅で、奥の昴の部屋が静か過ぎることに、見張りの狭霧はさっきから嫌な胸騒ぎを覚えていた。人払いを命じられているため元より会話の聞き取れない場所に控えてはいるものの、その会話が全く無いのだ。
 「取り込み中」であることは十分想像出来たが、それにしても何か不自然だと本能が告げていた。先程大河が見せた物分りの良過ぎる態度も、今となっては妙に引っかかる。覗きなど本意ではないが、彼等が部屋にいることを確認するくらいは許されるだろう。

 足音を忍ばせ部屋に近づくと、中から二人の会話が聞こえてきた。安堵して踵を返そうとした時、不意にその口調が何か言い争うような調子になったかと思うと、暴れ出す物音に変わった。

「嫌っ…だ、誰か」

「昴様!?」

 助けを求める声に、狭霧は頓着無く駆けつけ障子を開けた。そして飛び込んできた光景に、一瞬目を疑った。

 二対の眼差しがこちらに向けられている。二人は布団の上にいた。大河は昴の上に馬乗りになり、その咽元に指をかけていたのだ。

「血迷ったか貴様!」

 飛びかかる狭霧を逆に渾身の力で突き飛ばし、大河は開け放たれた障子から外の廊下へと飛び出した。

「待て!」

 逃げ去った大河に鋭く舌打ちし、狭霧は床にうずくまり激しく咳き込む昴を抱き起こした。

「昴様!ご無事で」
 
 恐怖に青ざめ全身をわななかせ、昴はがくがくと首を振った。 

「今しばらくお待ち下さい。すぐにあの男を捕らえ、その首を刎ねてまいります」

「狭霧…?」  

「あの男、許すわけにはいきません。昴様を汚したばかりか、あまつさえ一時の激情に駆られ、お命まで奪おうとしたその罪、万死に値します」

 呆然と狭霧を見つめ、昴は苦しそうに俯き両手で顔を覆った。

「大河…」

「昴様があの男を見損なっていたことを悔やむ必要はありません。私が昴様になりかわり、奴の裏切りに報いて、昴様のご無念を晴らしてごらんにいれましょう」

 昴は俯いたまま、じっと狭霧の言葉を聞いていた。傍目にはそう見えた。身体の震えはいつの間にか治まっていた。

「…昴が今、悔やんでいる理由はただ一つ。目的のためとは言え、大河の人と為りを他人に誤解されてしまう行動を敢えてとらせてしまったことだ」

「昴様?」

 理解に苦しむ台詞だった。どういう意味なのかと狭霧は昴の言葉を頭の中で反芻した。ほんの一瞬油断したと、狭霧がそれを認識したのは自分の首筋に昴の手刀が叩き込まれた瞬間だった。

「ぐっ…?」

 何が起こったのか理解出来ないまま、布団の上に倒れ込む狭霧の鼻先に、嗅ぎ慣れない薬のようなものがあてがわれた。

 それが何の匂いなのか気付いた時にはもう遅かった。急速に目の前が暗くなり、押し寄せる闇の中で狭霧は、昴の「すまない…」という声と、そっと近づいてくる誰かの足音を聴いていた。


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