寒の戻り、といったところか。やけに寒い夜だった。見張り番の交代でやってきた護衛は、廊下に控えているはずの狭霧の姿が消えているのに気付いて舌打ちした。

「厠か?今夜は確かに冷えるが。しょうが無いな…」

 …いや、あの狭霧がそう簡単に持ち場を離れるはずが無い。嫌な予感を覚えて護衛の男は昴の部屋へ駆け出した。障子の開け放たれた昴の部屋が見え、予感は的中した、と思った。

「狭霧!そこにいるのか?」

 その時、応えの代わりに中から飛び出してきた一人の少年と男はまともにぶつかった。勢い余って男は縁側から庭先へと転げ落ちた。

「な、何だ?」

 少年の姿は瞬く間に消えた。男は慌てて昴の部屋へ飛び込み、息を飲んだ。部屋の真ん中に完全に意識を無くした狭霧が倒れており、ここに居た筈の二人の姿は跡形も無く消えていた…いや、男の方を今自分は見た。しかも白い布団に包まれた大きな何かを肩から担いで走って…。

「それって、つまり…大変だ…!」




「昴様が攫われた?」

 真夜中の屋敷はたちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

「何が何でも捕らえろ!昴様をお救いせねば」

「出来るのか!?相手は狭霧を倒した程の手練だぞ」

「とにかく探せ!昴様を抱えていては、そう簡単に遠くへ行る筈がない。一刻も早く見つけて追い詰めるんだ!」

 警護の要である狭霧が倒れ、狼狽のあまり彼等はまともな判断が出来なくなっていた。その場にいた誰一人気付かなかったのである。人ひとりを抱えて逃げ回るにしては、大河の動きがあまりにも素早過ぎたということに。

 しかも騒ぎの起こっている場所とは無関係な所で、数名の護衛が昏倒しているのが見つかり、それが屋敷の混乱に一層の拍車をかけていた。





「あった…!」

 大河の姿を見失ったと騒ぐ声を遠くに聞きながら、ようやく目指す場所まで辿り着き大河はひとまず安堵した。そこは南側の離れの一つ、植え込みに囲まれていてあまり人が訪れる様子のない庭先だった。しかしここでぐずぐずしてはいられない。この場所にいるところを見つかっては、今まで逃げてきた全てが無駄になる。

「端から二番目、五つの角がある飛び石…これか」

 泥と草に埋もれた石に手をかけると、少し力を込めただけでそれはあっさりと開き、人一人が通れる大きさの入り口が姿を現した。大河は素早く周囲を確認し、ぽっかり開いた深い穴へと身を滑らせた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆




 屋敷の騒ぎを遠くから見下ろしながら、この騒乱のもう一人の当事者もまた緊張をみなぎらせていた。うまく逃げてくれるだろうか。もしもこのまま二度と会えなくなったりしたら…冷たい夜気以外の何かに肩を震わせた時、昴は近づいてくる気配に気付き地面に耳をあてた。

「来た…!」

 耳に伝わる足音がやがて梯子を上る音へと変わり、足元の岩が内側から開いた。

「昴さん!」

「大河…よかった、無事で」

「すみません、入り口を探すのに少し手間取ってしまって」

「充分だ。ここから見ていた限りでは、まだ騒ぎは治まっていない。よくやってくれた」

「いえ、ボクはただ言われた通りに逃げ回っていただけで」

「それでいい。君が僕の指示通りのルートで逃げていれば、君の姿を見失った彼等は必ずこちらと逆、南東方向の逃げ道を捜索する。脱出まで十分時間が稼げるはずだ」

 昴は深く続く森の方向を指し示した。

「さあ、最後の難関だ。早くこの森を抜けてしまおう。ここばかりは道を知っている者でないと簡単には通れない」



 月が明るいのが幸いした。ともすれば迷いそうになる深い森を昴について歩きながら、大河は無性にわくわくした。

「あの抜け道を通ってみた感想はどうだった?」

「真っ暗で恐かったですよ。道が真っ直ぐで助かった。迷路になっていたらどうしようかと思いました」

「あんなもの使わないに越したことはないと先祖は考えていただろうが、まさか外敵に利用されるとは思ってもいなかっただろうな。あの道の存在は九条家の中でも極秘事項で、狭霧以外の使用人は誰もそのことを知らない」

「え、昴さん、それって…」

 新次郎が一つの可能性に思い至って声を上げるのと、前方を歩く昴の足が止まったのはほぼ同時だった。

 月の光に照らされて、白い着物姿の女性が二人の行く手を阻むように佇んでいた。抜け道の存在を知る、もう一人の人間が。

「母さま…」

「行く気かい?」

 大河は昴を背中に庇い、前へ進み出た。

「お願いです。そこを、どいて下さい」

 母は答えず、ただその後ろに立つ我が子を見据えた。

「…その身に一度訪れた変化は、もう止まる事は無い。今この家を逃げ出すということは、九条家の庇護を拒むということ。…いつか、泣くよ。昴」

 それは最後の通告。母の言葉はいつだって正しかった。近い将来その力を失い、九条家の後ろ盾を失い、惨めな姿をさらすことになるかも知れない、と。

 それでも、自分は…。

「…昴は思う。同じ泣くのなら、せめて自分の選んだ道の上で泣きたい…と」

「九条さん…」

 今度は大河が口を開いた。

「昴さんはこの家で生まれて、それ故に他人には無い力を持っていた。でなければボクは多分昴さんと出会うことはなかっただろうから…ぼくは、感謝しています。昴さんを産んで、育ててくれたことを」

 ありがとうございます、そう言って大河は頭を下げた。

「…そして、どうか許してください。こんな未熟な自分が昴さんを連れていくことを。ごめんなさい、ボク達は行きます…!」

 大河は、昴の手を引いてそのまま走り出そうとした。母は静かに目を伏せ、二人に道を譲った。

「あ…」

「お行きなさい」

 二人から顔を背けたまま、母は告げる。 

「私の目の黒いうちは誰にも手出しさせない。でも、その後のことは誰にも判らない」

「九条…さん」

 呆然と立ち竦む大河を促したのは昴の方だった。

「…行くぞ」

 すれ違う母と子は、言葉も、視線すらも交わそうとはしなかった。迷い無くひたすら歩を進める昴の後を追いながら、大河は気遣うようにもと来た道を何度も振り返った。

「どうかしたか?大河」

「いえ、何でもないです。ただ…」

「ただ?」

「…母さんっていいな、と思って」

 昴は何も答えなかった。山を降りてゆく間ずっと喋らず、振り向きもせず、ただ大河の前を歩き続けた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆




「さて、どうするかな…」

 一晩かけてようやく二人は京都の駅へと辿り着いた。母の言葉を信じるならば、もう追っ手の心配は無いだろう。だが、ほとんど着の身着のままに近い状態で逃げ出してきた二人である。現在の所持金を合わせれば船の出る横浜港までの切符は手に入るが、その後の動きが取れない。何より昴の分の乗船券を処分されていたのが痛かった。

「ぐずぐずしてもしょうがないですよね。せめて一人だけでも先に帰らないと…」

「僕一人を日本に置き去りにする気か」

「違いますよ。先に帰るのは昴さんの方です。モギリならいくらでも代替がききますが、昴さんは一刻も早く紐育に戻ってシアターに復帰してもらわないと、あちらの運営が成り立ちません」

「同じことだ。ここまで僕を連れてきて、今更一人にするなんて許さない。二人で戻る」

 こう言い出すと昴は後に引かない。大河は必死で昴を宥めにかかった。 

「ボクなら大丈夫ですよ。出発がほんの少し遅れるだけですから」

「紐育までの旅費を今からどうやって工面するつもりだ」

「それはほら、帝劇の一郎叔父に頼るとか、それが駄目でもボクの実家がありますし…」

「一人前の男になるまで家へは戻らないんじゃなかったのか?」

 大河は言葉に詰まり、しばし二人は睨み合う。昴はふう、とため息をついた。

「仕方が無いな。犯罪に手を染めるのは不本意だが、背に腹は代えられない。ここは二人で美人局でもやって当座の金を稼ぐか…」

「はあ!?」

「心配するな。僕の指示通りにやれば絶対に上手くいく」

「何の冗談です。他人を脅してお金を取るなんて、ボクに出来るわけないでしょう?」

「誰が君に恐喝をやれと言った。その凄みの無い顔でどうやって他人を威圧するつもりだ。君は女役だ」

「だから真面目な顔してそういう冗談は……何ですかその嬉しそうな顔は」

「昴は答える。一度やってみたかった…と」

 昨夜以来の疲労が一気に押し寄せ、大河はその場に座り込んでしまいそうになった。

「あ…そ、そうだ。こんな時こそこれを開けてみないと…」

 大河は呟き、胸ポケットにしまっておいた巾着袋を取り出した。昴は呆れてため息を吐いた。

「サニーサイドのジョークか。そんなものが今更何の役に立つんだ」

「今の昴さんの冗談よりはまだましです」

「冗談でこんなことが言える状況か?安心しろ。君には素質がある」

「いいからしばらく黙ってて下さい!」

 半ばやけくそで叫び、大河は袋を開け中から小さく折り畳まれた紙片を取り出した。

「何だこれ…随分立派な用紙だけど…こっちは、切符?」

「どれ?」

 大河より遥かに英語に堪能な昴が用紙を取り上げ、気の無い様子で中の文面に目を走らせていたが、次第にその目が真剣味を帯び食い入るように読み始め、やがてその肩が笑いをこらえてわなわなと震えだした。

「…普段の行いというものがいかに大切か、よく分かった。最初から丸っきり期待させないでおいて、これだけの物を書いてよこすのだから…やってくれる」

「何です昴さん、そんなに面白いことが書いてあるんですか?」

「最高だ。見ろ大河。現在横浜港に停泊中の客船の乗船券と、その船の所有者である花小路頼恒伯爵宛の紹介状だ」

「花小路伯爵って?」

「知らないのか?現役の貴族院議員で、日本国内に於ける華撃団支援者の中心的存在だ」

 大河は昴が指し示す紹介状の部分を目で追った。

「本当だ。『この文書を持参する大河新次郎及び九条昴に対し、多大な配慮を図るよう依頼』って書いてある…って昴さん、じゃあこれは…!」

 昴はまだ笑いが治まらないのか、額に手を当てたまま俯いている。

「昴さん?」

「何でもない。ただ、嬉しい…と」

 顔を覗き込もうとするのを拒み、昴は大河の首にしがみついた。

「自分の知らないところで、誰かが自分のことを考えていてくれる…それがこんなにも嬉しい。煩わしい感情だとずっと思ってきたのに」

 肩に顔を埋め、震える掠れた声で昴は告げた。  

「感情の揺らぎが、うねりが、涙になってあふれ出てくる。涙を流すことがこんなに美しいものだとは知らなかった。でももう知ってしまったから…きっと泣くことも恐れずに生きていける」

「昴さん…」

 大河は昴の背を抱き、うっとりと囁いた。

「泣き虫の昴さんもいいですね…」

 ぴき、と空気の凍る音がした。失言だったと気付いた瞬間、大河は勢い良く頭を叩かれた。

「君は!いつになったら肝心なところで雰囲気をぶち壊すクセが治るんだ」

「だからって本気でぶたなくてもいいでしょう!そんなに怒るところなんですか?」

「もう少し言葉を選べと言っているんだ」

 まったく…と口の中で呟くと、大河の存在などまるで無視した様子で昴は歩き出した。結局またいつも通りかと、大河は密かにため息をつく。

「すみませんね、気の利いた言葉が何も浮かばなくて」

「まあいい。これから幾らでも覚えられるだろうからな」

「え?」

「教えるさ」

 昴は振り返り、渡航以来初めての晴れやかな笑顔をみせた。

「昨夜の続きも含めて、たっぷり話をしよう。二人きりの時間はまだ十分あるんだから」

 大河の手を取り、朝日を浴びて昴は駆け出した。今まで知らなかった世界に向かって、震えながらも羽ばたこうとする蝶の姿を、大河はその背中に重ねて見ていた。




END

 

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